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自我の最小化を試みたりしていることを書くと自我が必要ないものと誤解される人もいるかも知れませんが、そんなことはありません。 自我が無ければ、個別化した神が自分を再体験することが不可能になりますから。 肥大した自我に振り回されるのが問題なのであって、最小化した自我を使うという認識であるならば、それはとても役に立つことでしょう。 それに自我というのも、世界との相互作用によって生まれるものですから、完全な分離ということはありません。 自我とは思念の塊によって作られたプログラム的な想念体です。 育ってきた環境の中で周りから入力された思念が特手のパターンで結びついたものです。 多くの場合、両親の思念体の影響が大きいです。 育った地域で性格的傾向が異なるのも、その地域特有の想念パターンの影響を受けるからです。 自分と思っている自我という存在が単なる想念体のプログラムと言われると納得出来ない人も多いでしょうが、もっとそっけない言い方をすれば、自我は記憶の産物にすぎないとも言えるかも知れません。 要するに、「こういうときはこうする」というパターンの組み合わせに過ぎないってことね。 自分を自我だと認識すると、自分が小さな存在であることにショックを受けるでしょうが、自我にとらわれず、現実のフレームが真の自己という認識が出来れば、最小化した自我を使って、この世界の中で自分を再体験している神の立ち位置にいけると思います。 集合意識とか潜在意識と呼ばれるものが真の自己であり、この惑星のレベルの範囲で言えば、地球の意識が私と言えるかも知れませんね。 地球の意識が、人類の集合意識であり、それが個別化した自我を使うという感覚です。 一体化したひとつの私達というのが、真の自己の位置なのでしょう。 肉体は地球そのものですし、そこに個別化した自我を置き、それを感覚器官として地球の意識が世界を体験するという。 意識の中心を顔の中央に置くことで、自我を最小化し、そこから後ろに肉体を感じると、この現実世界のフレームの位置に自己の感覚が出ます。 すべてが自分の中で起こっているという感覚ですね。 そして面白い感覚としては、その視点に立った時、気はイマジネーションであるという認識もでてきます。 もっと言えば、すべてがイマジネーションでもあるわけですが。 ブログのトップに書いてある、「現実は神の観ている夢の様なもの」というのは、そういう意味でもあります。 |
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